マイクロソフトとの連携で実現した、「心の可視化ツール開発」がもたらす精神障碍者の就労定着支援
日本マイクロソフトでは、自社の果たすべきさまざまな社会的責任 (CSR) に対して積極的かつ継続的に取り組んでいます。 「環境」や「法令遵守」などと並んで「アクセシビリティ」もその一環であり、誰もがテクノロジーを使って自己の可能性を最大限に引き出せる社会の実現に向けて、日本マイクロソフトは障碍者雇用や就労支援、学習が困難な児童・生徒の学習支援活動、そして Windows や Microsoft 365 などの自社製品へのアクセシビリティ機能の搭載といった取り組みに力を注いでいます。
■障碍者支援の大きな課題となっている、精神障碍者の就労定着問題
2021 年に改正された障害者差別解消法により、国・地方自治体・事業者は障碍者への合理的配慮の提供が法的義務となりました。社会全体のダイバーシティ & インクルージョンへの理解の醸成といった背景もあり、近年は障碍者雇用に積極的に取り組む企業も増えています。
一方で、身体障碍者と比較すると、精神障碍者や発達障碍者は受け入れのための理解やインフラの整備が進んでおらず、就労においても支援が十分に行き届いているとは言い難い状況です。この現状は、当事者にとっても企業にとっても大きな課題となっています。
「精神障碍のある方は、就職したとしても 2〜3 年で約 3 割が退職してしまうと言われています」と語るのは、都内全域で訪問看護やリハビリ、療育、障害者就労支援事業を展開する株式会社リニエ R リニエワークステーション中野の作業療法士の扇 浩幸 氏。同社では 2021 年から就労定着支援事業にも取り組み、就職者が出てきているものの、なかには定着できずに退職してしまう例もあるといいます。
「利用者の気持ちの安定や服薬による調整が不十分だったケース、就職先の配慮が不足していたケースの両方があります」と定着の難しさを説明する扇氏。受け入れ企業は配慮事項を工夫したり、継続的に同社の就労定着支援サービスを受けたりと前向きに対応しているものの、障碍者雇用の経験不足もあり苦心しているそうです。
■心の可視化ツールとして、Power Platform を用いた日報アプリ開発をスタート
常に寄り添うことが必ずしもいい結果につながるとは限らない就労定着支援サービスという性質上、十分に利用者から相談を受けたり、適切なタイミングで支援することができないジレンマを同社でも抱えていました。
「就労定着支援サービスでは、就職当初は利用者と週に 1 回の電話、月に 1 回の面談を行いながら、就職先ともコニュニケーションを取り、なにかあれば都度電話やメール、面談などを通して相談してもらう体制を築いています。頻度や回数を徐々に減らして、最終的には支援をゼロにすることが目標となります。ですが、傍目には大丈夫と思っていても実は心が揺れている方もおり、そのような方に対するサポートが課題となっていました」(扇氏)
そんな悩みを抱えていた扇氏はあるとき、所属している東京都作業療法士会で日本マイクロソフト株式会社のパブリックセクター事業本部ヘルスケア統括本部でアクセシビリティを担当している小野 育美と知り合います。
扇氏から悩みを相談された小野氏は、「当社の製品は、身体障碍のある方に向けたアクセシビリティ機能はある程度備えているものの、精神障碍のある方のサポート事例は少なく、ぜひご支援させていただきたいと思いました」と、ローコード開発ツール「Power Platform」を用いた、利用者の心の動きを可視化するツールの開発を提案しました。
扇氏は「課題解決の手段になり得る」と捉え、この提案をベースにアプリ開発を始めました。アプリには就労定着支援サービスの利用者が、毎日の就労後に「今日の気分」、「業務の進み具合」などを選択肢から選び、「今日の一言」として自由にコメントを記入できる機能を搭載。さらに、リニエ R からメッセージを送れる機能やデータを比較分析できる機能を加え、支援者と利用者が相互に情報を共有できるアプリを開発することになりました。IT ツールを活用した定着支援の経験がなかった同社では、初めての大きな取り組みになったといいます。
■プログラミング初心者が、約 1 カ月で「誰もが使いやすいアプリ」を制作
特徴的なのは、本アプリの制作作業はすべて扇氏の手によって行われた点です。
扇氏は、Power Platform のアプリ作成ツール「Power Apps」のキャンパスアプリ機能でインターフェイスを構築。SharePoint でデータを格納し編集、共有されたデータを Power BI で整理するという構成のアプリを、自分の力で組み立てていきました。
アプリ開発開始時の扇氏は、IT スキルといえば Word、Excel、PowerPoint を使える程度で、プログラミングの知識や経験は全くありませんでした。しかし、「小野さんのアイデアを聞いて、これなら悩みを解決できると感じましたし、マイクロソフトからも支援してもらえるとのことでしたので、よしやってみよう、と腹を括りました」と当時を振り返ります。
扇氏はこのアプリの制作意図を次のように語ります。「まず、精神疾患のある方の気持ちの吐き出し口のひとつになれば、と考えました。さらに、後から自分の気持ちの変化や体調を崩しやすい時期などを知ることで、客観的に自分の状態を捉えられる“気持ちの見える化”ツールとして、またそれらのデータを私たちも共有することで、就職先企業へのアドバイスの参考となる情報ツールとしても使えると思っています」(扇氏)
ローコード開発ツールとはいえ、ある程度のプログラミング知識は必要であり、マイクロソフトからのアドバイスやネット上の情報で学習しながら作業を進めたそうです。扇氏は「就労後で疲れている状態でも入力が苦にならず、視覚での情報処理が苦手な人にも配慮したシンプルな UI」を心がけながら、1 カ月ほどの作業期間で完成にこぎつけました。
■利用者からのポジティブなリアクションに感じた大きな手応え
「素人ながら、かなり頑張ったと思います」と笑顔で振り返る扇氏。さっそくある利用者に 1 週間ほど使ってもらったところ、非常にポジティブな結果が得られたといいます。
「その方は統合失調症をお持ちなのですが、過剰にストレスがかかると症状が現れてしまうため、どんなときにストレスを感じるのか把握することが、私たちからの支援と本人の心の安定につながると考えていました。またその方は、自分の気持ちを文章に書くことで気持ちを落ち着けられる性格だということがわかっていたので、“今日の一言”欄が役に立つのではないかと思っていました」(扇氏)
扇氏の見立てどおり、“今日の一言”には毎日長文コメントが記載されていました。「ある程度予想はしていたのですが、仕事の後で疲れているのに、ここまで詳しく書いてくれたことは嬉しい誤算でした。また“今日の気分”の回答は“疲れている”が多い傾向だった一方で、“業務の進み具合”は“進んだ”が多かったので、最近は調子がいいのかな?と予想を立てることができました」(扇氏)
その後の面談の結果、やはりこの 1 週間は心身の調子が良かったことがわかり、日報から調子を読み取れることが裏付けられました。利用者からは、「信頼している人に向けて日々の気持ちを残せるのはいいと思う」「しばらく使っていれば過去の日報を見て気持ちの変化があるかもしれない」といった感想を聞くこともできました。
“今日の気分”の回答に“疲れた”が多かったのは、「“今日の気分”を表す回答の選択肢にバリエーションが少ないことから、疲れていなくても“疲れた”を選択していた」という真相がわかりました。
この結果を受けて扇氏は、「初めてのアプリ開発は大変でしたが、利用者さんにも使ってもらえて、よい結果もついてきたのでとても嬉しいです」と笑顔を見せます。
■アクセシビリティは障碍者のためではなくすべての人に有益なもの
「今後は他の就労定着支援サービス利用者にも幅を広げて活用実績を積み上げ、『人の心の見えない部分を可視化する』ことをテーマとして、いずれは学会発表も視野に入れていきたい」と展望を語る扇氏。
ゆくゆくは AI を用いたテキストマイニングや表情の解析による感情分析なども取り入れていきたいとしながら、「まずはアンケート機能や Teams を利用したチャット機能といった改良から手をつけていきたい」と、一歩一歩着実なステップ アップを目指します。
「この日報アプリは利用者向けだけでなく、職員間のコミュニケーションツールにも応用できると感じています。福祉の現場はまだアナログな業務が多いので、業務効率化アプリにも挑戦してみたいですね」と扇氏は期待を寄せます。アプリ開発の魅力に惹かれつつあるようで、「それほど難しいものではないことがわかったので、同僚にも勧めたいです」と、市民開発仲間を増やす活動にも意欲を燃やしています。
自分の気持ちをシンプルに記録し、後日振り返ることで自身心のありようを知って行動に反映する。
扇氏のつくりあげた日報アプリは、障碍のある方に限らず、誰にとっても QOL の向上に役立つツールであり、そのシンプルな UI も含めて、ユニバーサルデザインを具現化するものだと強く感じました。
この日報アプリに込められた「誰もが使いやすく、誰にとっても有用なツール」という開発思想は、きっとこれからのものづくりのスタンダードになっていくはずです。