医療データは「皆が体験できる世界」へーAzure API for FHIR を活用した未来とは
医療情報交換、管理の国際標準規格である FHIR(Fast Healthcare Interoperability Resources) は、医療分野の IT 化を進める重要な基盤として注目を集め、米国を中心に標準規格として整備されつつあります。マイクロソフトは 2019 年にAzure API for FHIR の一般提供を開始し、マネージドクラウドサービスで FHIR のネイティブサポートを提供する最初のベンダーとなりました。日本リージョンもリリース間近の Azure API for FHIR を用いた取り組みと、未来の医療情報のあり方について、帝京大学医療情報システム研究センター教授 澤 智博 氏にお話を伺いました。
「個」と「集団」、双方のアプローチで研究
日本マイクロソフト 石川 智之 (以下 石川): 澤先生と弊社は 10 年以上お付き合いいただいています。先生は臨床に携わるドクターでありながら、医療情報の分野に非常に注力されていますね。
澤 智博 教授 (以下 澤教授): 現在、麻酔科医として手術に立ち会う機会は少ないのですが、医療全体としての麻酔はどうあるべきかについての研究や、公衆衛生的な観点から集団の治療にあたる社会医学系専門医としての活動を行っています。医療情報学の専門医資格を米国で取得し、社会医学系に力を入れてきました。
石川: 米国でも医療情報学は新しい分野ですね。
澤教授: 米国では臨床の専門医が 1 つ必要なので麻酔専門医を取得した上で、医療情報専門医となりました。 医療情報学は 2013 年に新設された制度で、私は第 3 期の 2015 年に取得しています。
医療データ活用には原理原則から考えることが重要
石川: 日米双方の医療情報の現場をご覧になってきた澤先生から見た、世界の現状や今後の課題などについてお聞かせください。
澤教授: 医療の現場では 1990 年代からデジタル化が進み、オーダリングシステムや電子カルテは広く導入されています。手書きの伝票類をデジタル化するという当初の目的は達成されつつあると言えますが、その一方で、蓄積されたデータを活用して新しい医療のために役立てるという部分については、まだ多くの課題が残されている印象を持っています。
石川: その中で、PHR (パーソナルヘルスレコード) の取り扱いについてはどういう状況にありますか?
澤教授: PHR は個人の健康記録、医療記録という形で従来から存在しています。初診時に年表を持参される患者さんもいらっしゃって、それをもとにお話しするケースもありました。自分で作った年表は、長い巻物だったり、手帳形式だったりと、いろいろなスタイルがあります。
石川: 患者側の考え方に変化はありますか?
澤教授: 健康管理という点では、テクノロジーの進歩とともに私たちの認識が変わってきていると思います。歩数計や血圧計を使って家庭でも簡単に測定できるようになり、次いで Bluetooth で接続が可能になりました。新しいテクノロジーが登場するとブームが起きるという状況が続いています。 また、患者さんと医療施設の接し方にも変化が現れています。生涯を通じて 1 つの病院ですべてが完結することはなく、傷病ごとに応じて複数の医療施設で診察を受けることが多くなってきており、その際に自分の状態を説明するためのデータが必要になります。そこで PHR が役立つと思われます。
FHIR の特徴の 1 つは構造化されたデータ
石川: 昨今、電子カルテを中心として、日本の医療システムは標準化が進められています。医療情報の共有を目的とした標準仕様である「FHIR」という名称を耳にするようになりましたが、FHIR がどのように活用され、今後の医療システムのあり方をどう変えていくのかについてお聞かせください。
澤教授: これまでの標準規格は FHIR と比べると、単語・用語・コードなどの基本パーツから整備が進められてきました。薬剤や医療材料など、ものに対するコード体系は非常によく整備され、病名にも明確なコード体系があり、これらコード類はよく普及していると思います。
データを転送するための規格としては HL7 があります。これは、複数の医療システム間で情報交換する際に使われるもので、データを何らかの区切りでまとめて転送し、情報を共有するものです。ほかには退院時のサマリー文書などドキュメントの規格や、画像の規格があります。
一方、FHIR はデータそのものが説明可能な「構造」を持っていることに特徴があります。たとえば、これまでは患者さんの基本情報を渡す際は基本情報だけを送っていましたが、FHIR では薬の情報や来院履歴といった要素を組み合わせたデータを作成できるのが大きなメリットです。
FHIR を導入した場合の具体的なメリットとしては、患者さんに関する情報、つまりその患者さんを説明するためのデータをまとめて渡すことができるようになる点が挙げられます。特に、最適な医学的判断を得るために使われる DSS (ディシジョン・サポート・システム) の活用で、そのメリットが大きいと言えます。従来のように断片化された情報を 1 つずつ送るのではなく、患者さんの治療経緯や使用した薬剤、検査結果といったデータを合わせて送ることができるようになります。反対に、それなりに複雑な構造のレコメンデーションデータをシステムから受け取ることもできるようになってきます。スムーズな連携が可能になり、さまざまなデータを組み合わせることで効率が上がり、より適切な治療を進められる点がもっとも期待できるところですね。
石川: 検証は帝京大学でも進められているのですか?
澤教授: はい、進めています。たとえば、エビデンスに基づく医療を行う際、今まではまず論文や書籍本の診療ガイドラインを読んで、理解した後で実行するという2 つの要素が必要でした。今後はコンピューターが人間に向かって「こういう可能性があります」と提案する、本来あるべき姿になっていくと思います。現在は、今後実装するためにどのようなシステムアーキテクチャが適しているのかを検討するとともに、電子カルテのデータ構造の整理を進めています。現在の電子カルテはリレーショナルデータベースで考えられる範囲の構造を持っているのですが、FHIR の導入に向けてもう一度見直している状況です。
これからは患者が医師により正確な情報を伝えられるようになる
石川: 今後、FHIR をどのように役立てていくかについて、取り組みの状況をお聞かせください。
澤教授: 現在、患者さんを診察するために「最低限必要なデータ」を、FHIR で試験的に作成しています。年齢・性別・アレルギーなどの基本情報、診断名の履歴、薬剤の履歴、検査の履歴。この 4 つの要素があれば、初対面の医師でも相応に安全な医療を開始することができます。FHIR はクラウド活用が可能なので、必要に応じて医師が患者さんと情報共有できるような形のアプリケーションを開発しています。
いま日本では、FHIR についてはコンセプトベースの議論話が進んでいますが、そもそも FHIR を動かすシステムがなければ、FHIR のメリット・デメリットも理解できません。実装されたソフトウェアでの体験なしに議論だけが進んでいく点に課題を感じています。
しかし、FHIR を知らない、見たこともないという医療従事者もまだまだ多い中、いざ実装するとなると難しい。そこで、多くの医療従事者が実際に FHIR を見て触れるようにしたいというのが、このソフトウェア開発の趣旨です。
また、患者さんが医療の組み立てを支援する「ペイシェント・エンゲージメント」の取り組みも進んでいます。たとえば、ある患者さんから「私は魚アレルギーがあります」と言われた場合、医師はたとえ有効とわかっていても魚由来の製剤を一切使うことができなくなります。ここで、アレルギー反応を起こしたという事実はその患者さんにしか知りえません。患者さんの記憶を医療者に提供し、医療者が医学的視点でその内容をデータ化しておくことで、医師は効率よく最適な治療方針を立てることができます。患者さんも医療のプロセスに加わることにより、医療全体の効率化が進むと考えています。
石川: 患者さんが医師に正確な情報を提供することができるようになる、システムが大切ということですね。
澤教授: そうですね、そこに医学的解釈を加えることが重要です。人生 100 年時代と言われる中で、「若い頃こんなことがあった」だけでは判断が難しいので、定期的に自分の身体の状況を説明するためのデータを見直し整理しておく必要があるでしょう。
今後、健康や医療に関するデータは医療者だけではなく、市民の視点からも触って体験できるものになると思います。学生時代から健康や医療データについて理解し、将来を考えながら活用するしくみができれば、生活の一環として医療・健康に関するデータを管理することができるようになります。「お薬手帳」はその一部ですが、FHIR は医療全体を網羅するため、データ活用を体験するために最適なツールになると考えています。
現代は「患者さんは医師の言うことを聞けばいい」という時代ではありませんが、本当の意味で患者さんとともに医療を進めるには両者の情報格差を解消する必要があり、そのためには皆さんに医療データに対する実感を持っていただくことが重要です。FHIR のようなワールドワイドに通用する構造をもったデータに、どの方々でも接することができるようになったことは大きな進歩だと思います。たとえば、高校生が夏休みの自由研究で自分の健康データを可視化してみるなど、医療に関する理解とデータ活用が FHIR によって促進されればと考えています。
石川: Azure Cloud 上で FHIR を活用する取り組みを進めていただいていますが、Azure のサービスを組み合わせて使うことのメリットや、他社との違いについてお聞かせください。
澤教授: Azure には、たとえば Power BI Embedded、マシンラーニングなど、いろいろなサービスが展開されています。Azure 上で供給されているサービスを、FHIR のデータと組み合わせて使うことによる効果は大きいと思います。
医療現場におけるクラウド、AI 活用のビジョン
石川: 海外における FHIR の浸透度を教えてください。
澤教授: 米国では全病院の 96% に電子カルテが導入されたという調査結果が出ていますので、おそらくかなりの比率で標準準拠になっていると思われます。
日本では今のところ FHIR が国の標準規格ではありませんが、現在厚生労働省が制定している規格に加えられる可能性はあります。ただ、FHIR はさまざまなテクノロジーを組み合わせた構造体なので、そこは十分理解する必要があるでしょう。
石川: 医療現場で活用が期待されているクラウドサービスの姿はどのようなものですか?
澤教授: 下記は医療施設とクラウドとの関係をデータとテクノロジーの視点で整理した概念図です。この図では左側に医療施設、右側にクラウドの世界を描いています。クラウドは OpenID などのテクノロジーで安全性が急速に高まっているのは事実ですが、それで不安が完全に解消するとは言い切れません。その点を踏まえると、医療データは院内に置いて、処理をクラウドで行う方法も考えられるでしょう。AI などメンテナンスが難しい複雑なソフトウェアはクラウドで管理し、処理したデータを院内に戻すことが可能になればと思います。
クラウドに期待する 4 つのキーワードとしては、AI (マシンラーニング)、BI (ビジネス・インテリジェンス)、CI (クリニカル・インテリジェンス)、QI (クリニカル・インディケーター) といったビジョンサポートが挙げられます。医療の進歩は早く、特に新しい病気や治療においては、世界中からよりリアルタイムに、複数の医療者からの知見を得る必要があります。その意味で、クラウドは非常に役立つと考えています。
QI について、米国における大きな動きとしては、実施された医療の結果を自動計測し継続的に評価するシステム基盤構築が進められています。例えば、診療ガイドラインは作成時点でのベストエビデンスをもとに有識者が作ったものですので、時代とともに見直しが必要になります。診療ガイドラインに従った医療がどのような結果となったのかを常に計測しモニタリングすることで、日々の診療にフィードバックし、将来の診療ガイドライン作成に必要なリアルエビデンスが蓄積されるという仕組みが必要です。そこにはやはりクラウドテクノロジーが必要で、全国に広がるさまざまな医療施設からリアルタイムにデータを収集・処理し、ベンチマークデータをフィードバックするなどのシナリオで QI 基盤構築に適しています。
石川: その中に、Azure 上で AI を使う取り組みは進められていますか?
澤教授: 医療分野における AI で最も進んでいるのは、マシンラーニングによる画像解析です。現在は眼科の眼底画像で、これをOpenVINOTM というインテルのディープラーニング推論をより高速に実行するためのツールキットを使って、Azure 上で効率的に解析できるシステムを組み立てています。
実際に操作して理解するメリット
石川: 最近になって再び PHR に焦点が当たっていることについて、コンセプト自体は本質的なものだと思いますが、やはりクラウドやテクノロジーの進化が関係しているのでしょうか?
澤教授: テクノロジーとしては、やはりクラウドの成長が大きいと思います。過去には個人端末でデータを入力・表示するなど利用場面が限定的でしたが、現在はクラウド上でデータを処理することによって、新しい知見を得ることができます。データが持つ意味の解釈がクラウド上で可能になることには期待しています。
石川: このようなしくみが普及した時に、患者さんにとってメリットとなる部分は何でしょうか?
澤教授: 複数の医療施設を受診する患者さんにとっては、自分の状態を効率よく説明できることや、正確なデータを伝えてミスを防ぎ、適切な医療が受けられる点にメリットがあると思います。また、災害や大規模な事故が発生した際にも非常に役立つと言えます。
石川: Azure API for FHIR は 2020 年内に日本リージョンでサービスを提供予定です。これは日本で展開するための必須条件となりますか?
澤教授: 標準規格は「有識者の会議で決まったから」というだけのものではなく、実装されなければ普及しません。マイクロソフトの製品はすでに実装できる状態にありますので、実際に使ってみて効果を確認することに大きな価値があると思います。以前は難しい規格書を読んでソフトウェアを組み立てても、それが本当に標準規格に準拠しているかを確認する機会が少なかったのですが、マイクロソフトの FHIR は実装されたクラウド上のマネージド API (Azure API for FHIR) になっているので、実際に操作して理解するという、これまでと違った理解の方法が可能になることは大きいですね。
医療データ活用の未来と、マイクロソフトへの期待
石川: ここまで、患者さんが医療情報を使って自身で健康を管理したり、臨床の現場で医療情報活用を理解する意義などをお話しいただきましたが、先生が考えておられる将来像や、マイクロソフトに期待されていることがありましたらお聞かせください。
澤教授: 患者さんが自分を説明する医療データを複数の医療者に渡せるようになると、おそらく複数の解釈が返ってくることでしょう。現在、「ドクターショッピング」という言葉は必ずしも良い意味で使われていないのですが、一方で、さまざまなシステムや医師による自分に対する客観的なアセスメントが得られることには大きな意味があると思います。
未来のコンセプトを示すことは誰でもできますが、それが本当に使えるものなのかは不確実です。マイクロソフトは、ソフトウェアで実現できることの最前線をいつでも示してくれる存在だと思います。たとえば最近はマイクロサービスが話題になっていますが、それを実装したソフトウェアのフレームワークとして提供し、さらにラーニング マテリアルをも用意してもらえるのはうれしいことなので、今後も続けてほしいと思います。
石川: ありがとうございました。
医療の IT 化が加速する中、日本でも電子カルテや画像診断といった取り組みが進められています。ただし、データ活用の部分では「活用はこれから」という印象を受けるのも事実。医療データの交換、連携を可能にする標準規格 FHIR は、次世代医療実現の鍵を握る要素の 1 つと言えるでしょう。マイクロソフトは Azure API for FHIR の展開を通じて、医療 IT のさらなる進歩をサポートします。